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『新世紀講談大全 神田松之丞』(2015年4月18日)



1909年に“大日本雄辯會”として設立された講談社は、その名の通り講談の速記本で人気を博した出版社だ。だが、講談社の本を愛読している人たちの中に、この事実を認識している者がどれほど居るだろうか。社名に“講談”の二文字がはっきりと記されているにも関わらず、講談と講談社の関連性について考えたことのある者がどれだけ存在しているのだろうか。……別に無頓着を責めようというわけではない。その事実を気付かせないほどに、講談は私たちの日常からかけ離れた演芸になっているということを言いたいのである。落語には日曜の夕方を代表するテレビ番組『笑点』があるが、講談には同趣向のテレビ番組が存在しないことが大きいように思う。演り手も非常に少ない。寄席演芸情報誌の『東京かわら版』が年に一度発行している「東西寄席演芸家名鑑」に掲載されている落語家の数と講談師の数を比較すると、その差は明白だ。……ここでわざわざ数えるような手間暇をかけるつもりはないので、その実態は直に確認してもらいたい。


そんな講談の世界に着目したシリーズ“新世紀講談大全”の第一弾である本作には、現在最も注目を集めている若手講談師・神田松之丞に迫ったドキュメンタリーが収録されている。松之丞がどうして今の時代に講談の世界へと身を投じようと決心したのか、彼の芸はどのように評価されているのか、これから講談の担い手として確固たる目標を抱いているのか、松之丞自身(或いは松之丞の師匠である神田松鯉)の声によって語られている。もちろん、高座もちゃんと収録されている。演じられているのは『違袖の音吉』『天保水滸伝 鹿島の棒祭り』『グレーゾーン』の三席。『音吉』『棒祭り』はいわゆる古典で、『グレーゾーン』は松之丞が自ら手掛けた新作だ。この堅苦しい演題から、時代錯誤の古臭い物語が展開するのではないかと想像した人も少なくないだろう。だが、それは間違った認識だ。確かに物語の舞台は古典的ではあるが、その内容は現代人であっても楽しめる普遍的なものである。

『違袖の音吉』は浪華三侠客の一人と称される“違袖の音吉”の幼少期を描いた演目だ。上方講談の連続物『浪花侠客傳』からの一席で、12歳の音吉が橋のド真ん中で衝突した大親分・源太源兵衛に噛みつく様子を演じている……と書くと、なんとも面倒臭そうな話に見えるかもしれないが、要するに世間から恐れられている親分に向こう見ずな子どもが啖呵を切る話である。この12歳の音吉の減らず口が非常に面白い。相手がどれだけの大物であろうが、脇差を抜こうが、真正面から勝負に持ち込まれようが、とにかく喋ることを止めようとしない。でも、理路整然としているわけではなく、しっかり慌てふためいているところが、また可笑しい。特に笑らせられたのは、大親分に脇差を抜かれて、対抗すべく自身の持ち物の中から窮地を脱するための道具を探す場面だ。大幅に脚色が施されているのだろう、それまでの流れから明らかに突出したバカバカしさだった。

続く『天保水滸伝 鹿島の棒祭り』は実在した侠客・笹川繁蔵と飯岡助五郎の争いを講談化した長編連続講談『天保水滸伝』からの抜き読みで、千葉道場の俊英だったが酒乱が故に破門となった剣客・平手造酒が笹川の用心棒となり、敵方である飯岡の用心棒と一戦を交えるまでの行程が語られている。用心棒同士が接近する様子がなんとも緊張感漂っていて、一般的に講談に持たれているイメージに近い演目だったが、これまた笑えた。しっかりと作り上げられた緊張感があるので、それが緩和される瞬間、何とも言えない面白味になるのである。飯岡の用心棒を切ろうと剣を構えた平手の目の前に謎の人物が飛び出してくる、あの絶妙な間が実にたまらない。確かな手腕に裏打ちされた冒頭の宣言も含め、非常に満足感の残る口演であった。

しかし、本作で最も多くの人たちに観てもらいたい演目は、三席目の『グレーゾーン』である。物語は二人の平凡な中学生・吉田と柿元のやりとりで幕を開ける。彼らは昼休みになると、いつも大好きなプロレスの話で盛り上がっていた。とはいえ、プロレスの話をするのは吉田ばかりで、柿元はそれを聞いて驚くだけの聞き役に徹していた。そんな二人のプロレス談義に水を差そうとする連中もいたが、彼らは……もとい吉田は理屈で言い負かした。吉田はプロレスを信じていた。そんなある日、一冊の暴露本が世に出回ることとなる。プロレスの舞台裏を明かしてしまったミスター高橋の『流血の魔術 最強の演技』である。この本の登場によって、吉田は学校から居場所を失ってしまう。そして彼は、口先だけで生きていける世界へ飛び込むことを決意する……。白とも黒とも分からない曖昧な領域、グレーゾーン。それを外から見ている私たちの勝手な願望と詮索、その中で生きている人たちの葛藤と苦悩、両方の角度から切り取った見事な一席だ。プロレス、大相撲、落語を絡めた少しマニアックな情報も、この物語に厚みを加えている。これは演者の努力ではなく制作側の話になるが、分かりにくい小ネタに解説テロップがついているのも有難い。テレビのようにスタッフの自尊心が垣間見えるような派手なテロップではなく、空気を崩さない程度の違和感無い演出に留めている配慮が素晴らしい。極論、本作はこの演目を記録するためだけに存在していると言っても、過言ではない。それほどに魅了された。熱量に飲み込まれた。後半、やや内輪ネタに偏っているが……それでも十二分だ。

講談は古い。そんなイメージがあるのは百も承知だ。でも、一つ思い切って、その敷居を越えてきてもらいたい。一歩、一歩踏み出すだけでいい。その一歩を踏み出す勇気があったなら、最初に本作を足掛かりにしてもらいたい。神田松之丞、1983年6月4日生まれの現代人が、現代の言葉でもって普遍的な笑いを含んだ物語を繰り広げている。これを観れば、きっと講談の世界の自由さに興味を抱くはずだ。いや、抱かなくてもいい。

本作は文字通り、必見である。


■本編【110分】
「神田松之丞インタビュー」「違袖の音吉(2014年5月10日・末廣深夜寄席)」「神田松之丞インタビュー」「師匠 神田松鯉インタビュー」「天保水滸伝 鹿島の棒祭り(2015年2月14日・末廣深夜寄席)」「神田松之丞インタビュー」「グレーゾーン(2014年12月26日・神田連雀亭)」「神田松之丞インタビュー」
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笑いの小金治。

桂小金治が亡くなった。88歳だった。

私が小金治師匠のことを知ったのは、当時は松本尚久と名乗っていた和田尚久氏の著書『芸と噺と―落語を考えるヒント』が一番初めだった。いきなりの余談で恐縮だが、本書よりも落語家の魅力を的確に記した本を私は他に知らない。無論、単なる無知の妄言でしかないのかもしれないが、まだ落語の世界の入口に立っていた私の手を引いてくれた恩のある一冊であることには違いない。いやいや、ことによると、落語という魔窟へと引きずり込んだ一冊といえるのかもしれないが……。

和田氏は師匠の落語について、次の様に記している。

 小金治さんの落語には、落語が社会の中で、ひとつの居場所を与えられていた時代の落ち着きと安息と秩序がある。余裕がある。そうして、噺の細部までが、社会の奥底としっかりと結びついている。ここでは数十年間のブランクがプラスに作用している。聡明な小金治は、映画界入りという形で、社会と落語とのやがてくる乖離を、あらかじめ回避していたとは言えないだろうか?
 私たちは桂小金治に<間に合っている>ことの幸運にもっと自覚的であるべきだろう。


この文章を読んで、私は小金治という落語家に興味を抱いた。そしてCDを聴いた。小金治の落語を収録したCDは、現時点で2種類しか手に入らない。83年に本多劇場で収録された『桂小金治(1)「三方一両損」「禁酒番屋」』と、04年に国立演芸場で収録された音源と06年に日本橋亭で収録された音源を二枚組にパッケージした『桂小金治名演集 1 粗忽の使者、蛇眼草、饅頭怖い、大工調べ』である。私はまだまだ若輩者であるが故に、その魅力を明確に理解しきれてはいないが、その整然とした語り口になんともいえない魅力を感じたものだ。なので、いうまでもなく、更なる作品のリリースを期待していたのだが、現時点に至るまでそういった話はついぞ耳にしない。落語マニアの痒いところに手を届かせてくれる素晴らしきCDレーベル・キントトレコードあたりが動いてくれないか、密かに期待していたのだが……。ちなみに、私が好きな演目は『蛇眼草』である。あまり夏の要素が無い演目なのに、なんだか夏の日常が見えてくるんだよなあ。

その後、師匠は2011年9月29日、国立演芸場で開催された『桂文我独演会』にゲストとして出演した際に、落語家としての引退を宣言する。これを機会にCD化の動きが見えてくるか……と思っていたが、見られず。今となっては、CD化を待たずにとっとと生の高座を観に行かんかいと思わなくもないが、全ては過ぎた話である。88年間、お疲れ様でした。ゆっくりとお休みください。

ところで、追悼盤の話は(←不謹慎)

『白酒ひとり壺中の天 火焔太鼓に夢見酒』(桃月庵白酒)

白酒ひとり壺中の天 火焔太鼓に夢見酒 (落語ファン倶楽部新書009)白酒ひとり壺中の天 火焔太鼓に夢見酒 (落語ファン倶楽部新書009)
(2013/09/25)
桃月庵 白酒

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『噺家が闇夜にコソコソ』にレギュラー出演中の落語家、桃月庵白酒の自伝。落語家の自伝本といえば、落語とのセンセーショナルな出会いから師匠に入門するまでの流れを経て、それからの奮闘ぶりを中心に描いている印象が強い。しかし、本書はいきなり、白酒が早稲田大学の落語研究会に所属し、ユルーい学生生活を送っていた頃の話で幕を開ける。なんだよ、落語家としての厳しい修業時代とかの話を書いて、俺たちサディストの性感帯を刺激しろよ、などと思ったり思わなかったり。ただ、この頃の話が、やたらめったら楽しい。自分のアパートの部屋よりも部室にいる時間の方が長かったとか、そういうバカ学生にありがちな話ばっかり。

ところが四年生になって、そんなバカ学生にも“卒業”という現実が迫ってくる。周りの仲間たちは就職の道筋を決めているのに、ただ一人だけ取り残されていく。そんな時に、ふっと頭に「落語家になろうかな」という意識が芽生えてくる。でも、芸人として、果たして食っていけるのか。この葛藤が実に生々しい。そして遂に、五街道雲助の門を叩く……もとい、玄関のインターホンを押す瞬間! 芸人への第一歩を踏み出した、その瞬間に本書はピークを迎える。その後の修業時代や大学以前のエピソードも面白いけれど、もうここが凄かった。全ての芸人志望者は、本書を読んで大いに共感すべし。で、芸人になったら、雲助の自伝『雲助、悪名一代』を読めばいいんじゃないかなあ。

『枝雀らくごの舞台裏』(小佐田定雄)

枝雀らくごの舞台裏 (ちくま新書)枝雀らくごの舞台裏 (ちくま新書)
(2013/09/04)
小佐田 定雄

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私が初めて聴いた二代目桂枝雀の落語は、レンタルショップで気まぐれに借りた『THE 枝雀』に収録されている口演だった。演題は『宿替え』『宿屋仇』。どちらも明るく呑気な噺で、師匠の良さが存分に発揮されているネタなのだが、当時の私は上方落語を聴くことに慣れておらず、その喋りの癖の強さがどうも受け入れられなかった。その後に、枝雀の師匠にあたる三代目桂米朝の丁寧な口演を受けて、上方落語のニュアンスを理解した後に聴いてみて、ちゃんとその良さを認識することが出来たのだが。結局、何かを理解するためには、ただ上等な作品に触れるだけではなく、それを正しく受け入れられる心持ちであることも重要なのだと、この時はしみじみと思ったものだ。

電話の内容は台本を読んだということ。ぜひ演じさせてほしい。ついては一度会って話がしたい……というまさに夢のようなものだった。まだ会社勤めをしていたころだから、次の土曜か日曜に枝雀さんが出演していた道頓堀の角座で会うことになった。そこで、枝雀さんから、「こんな台本、待ってましたんや」と天にも昇るような望外なお褒めの言葉をいただいた上に、「次回の『枝雀の会』でやらせてもらいます」と約束していただけた。その日の帰り道、きっとただでさえしまりのない私の顔は、ほどけきっていたにちがいない。

(本文227頁「幽霊の辻」より)


本書は、二代目桂枝雀の座付作家・小佐田定雄が、師匠の持ちネタをきっかけに様々な思い出噺を展開している一冊である。小佐田氏はサラリーマンだった頃に『幽霊の辻』という新作落語の原稿を師匠に送り付け、その才能を見出されるという異例の形で落語業界に飛び込んだ人物だ。師匠の没後も、数々の新作落語を書き上げ、上方落語の世界で多大に貢献している。いわば小佐田氏は、師匠の「新作落語を作りたい」という心持ちに、上等な作品でもって答えたのである。そのアメリカンドリームを思わせる人生模様は、ある意味、落語好きにとって、最も理想的な生き方をされているといえるのかもしれない。

そんな小佐田氏の文章は、二代目桂枝雀に対する深い尊敬と愛情で満ち溢れている。本当に話の細かい所までしっかりと記憶しているし、なにより、彼の語る師匠はとてつもなく魅力的だ。落語に対する並々ならない感性の鋭さを見せかと思えば、私生活で垣間見せる人柄もたまらない。例えば、弟弟子である桂ざこばについての話は、ちょっとうるっときてしまった。

 ざこばさんは朝丸、枝雀さんもまだ小米と名乗っていた時代というから、おそらく六〇年代のことだと思う。ある雨の日、二人が肩を並べて歩いていると、道ばたに生まれたての仔犬が捨てられていた。いったんは通り過ぎたものの、立ち止まった朝丸は、
「兄ちゃん、ぼく、さっきの仔犬になにかしてやりたいねん」と言い出したのだそうだ。小米は、
「あのな、いま、この仔犬になんぞやったところで、いつまでも面倒をみてやれるわけやないねん。中途半端な情をかけてやるよりは、このままほっといたほうがええんやないか」と諭したが、
「兄ちゃんの言うてることもわかるけど、ぼくはいま、なにかをしてやりたいねん!」
 そう言い残すと朝丸は近所の売店で牛乳を買い、きびすを返して仔犬の捨てられていたところへ走って行った。雨の中、遠ざかって行く朝丸の後ろ姿を見送りながら、小米はおなかの底から「えらいやっちゃなあ」と思ったのだそうだ。
「わたしら妙に賢いというか醒めたとこがおますやろ。ついつい自分の都合のええ理屈で判断してしまいますねんけど、朝丸にはそういうところが一切おまへん。自分の心に正直な男ですねん。ほんまにえらい男です」
 そう語った枝雀さんの声は泣いていた。

(本文94~95頁「鴻池の犬」より)


ざこば師匠の行動も素敵だが、それを優しく受け止める枝雀師匠の関係がなんとも美しい。

先にも書いたことだが、本書で綴られている枝雀の姿はとてつもなく魅力的だ。……だからこそ、本書を読み進んでいけばいくほど、彼が非業の死を遂げたことを残念に思ってしまう。これだけの才能があって、これだけの感性があって、これだけの人たちに親しまれて、どうして自らの手で人生を終わらせてしまったのか……。没後10年以上が過ぎている今でも、その喪失感は深く胸に響いてくる。そういう意味では、非常に罪作りな本ともいえるのかもしれない。どんなに求めても、今、師匠は何処にもいないのだ。

あれからずいぶん長い時が流れたが、枝雀さんの「おもいで」は永遠に私の手元にある。

(本文240頁「おもいでや」より)


そんな思い出を幾つか残していかなくてはならないな、と思わなくもない。

五街道雲助『雲助、悪名一代 芸人流、成り下がりの粋』

雲助、悪名一代 芸人流、成り下がりの粋 (落語ファン倶楽部新書008)雲助、悪名一代 芸人流、成り下がりの粋 (落語ファン倶楽部新書008)
(2013/09/25)
五街道 雲助

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立川談志が“江戸の風が吹いている”と評した実力派、五街道雲助の人生を振り返った一代記。雲助師匠は私も大好きな落語家で、朝日名人会シリーズからリリースされている音源の『お直し』(夫の博打によって身を持ち崩した夫婦が最下級の女郎屋を始める噺)を始めて聴いたときは、その壮絶な物語も然ることながら、男と女のどうしようもないおかしみを浮き彫りにした内容に、強い感銘を受けたものである。そんな雲助師匠の人生を振り返っているというのだから、読まないわけにはいかない。というわけで発売直後、近所の書店で速やかに購入して読み始めたのだが、序盤の文章にまず面食らった。

 ピラミッドの頂点を目指して、上へ上へとだんだん狭くなる道を登ってゆくのが世間での「成功」、「成り上がり」です。
 芸人の世界ではどうか。落語は、お殿様から貧乏人、生意気な子どもや絶世の美女から人殺しまで、ありとあらゆる人間を舞台上で演じてみせる商売です。
 ピラミッドの三角の、いちばん広い底まで深くもぐらなければ、そこからでなければ、全部を見ることができない。それで、わたしは「成り下がり」と呼ぶのです。

(本文12頁より)


芸人という職業が一般の人よりも下に見られる立場にある理由を、こうして明確に言葉にしていること、江戸時代に使われていた蔑称“河原者”という言葉を未だに振りかざしている人間が存在する現在、ここまではっきりと、その必然性を説いてくれていること、それに私は思わず感動してしまった。もっと野暮ったい言い方をすると、シビれてしまった。低いところにいるからこそ、一般の世界がよく見える。これは落語家に限らず、全ての芸人にいえることではないだろうか。

本書には、そんな雲助の「成り下がり」な人生が赤裸々に綴られている。そば屋を切り盛りしている両親の元に生まれ、大して構われることなく一人で空想・妄想を繰り広げていた少年時代。教師に「無理だ」と断言されて一念発起、明治大学に入学。落語研究部に入って寄席狂いの毎日。おかげで単位が足りずに、しかし実家を継ぐ気にはなれず、どうしたもんかと考えていた時期に実家が離婚の危機、そのどさくさで落語家になることを許してもらう。五代目柳家小さんに弟子入りしようとするも断られ、次の候補であった十代目金原亭馬生に弟子入り。馬生という落語家を肌で感じる前座修行、飲み屋「かいば屋」で出会った第二の師匠との出会いと別れを経験した二つ目時代、そして真打へ。どこを切っても芸人・五街道雲助を考える上で切り離せない話ばかりで、そのあまりに濃密な内容に、買ったその日に読み終えてしまった。

現在、雲助一門には三人の弟子がいるのだが、いずれも違う亭号を名乗っている。一番弟子は「桃月庵白酒」、二番弟子は「隅田川馬石」、三番弟子は「蜃気楼龍玉」。いつだったか、「古い変わった名前を掘り起こしている」と聞いていて、なかなか面白いことをしているんだなあと感心したものだが、本書にはその真意(のようなもの)も語られていた。

 全員が真打となった記念に、伊勢丹新宿店の写真館で一門写真を撮影してもらいました。
 黒紋付に羽織袴の正装で、四人が彼方を見据えています。
 同じ方向ではなく、みんな少しずつ違うところを。
 これからは、「五街道」一門ではなく、「五街道」×「桃月庵」×「隅田川」×「蜃気楼」の四門として、己の道を行こう、という決意の写真です。
 江戸・日本橋を起点に五つの街道が全国へのびてゆくように。

(本書192頁より)


普段、私は「芸人とはこうあるべき」という言い回しを、決して好ましく感じていない。そういった言い方をする人間が、往々にして自身にとって理想の芸人像をそのまま言葉にしているだけであるように思え、そんな軽薄なことはしたくないと思っているからだ。だが、この本は紛れもなく、“芸人”による最高の一冊であったと断言する。もし、自分がまだ学生だった頃に読んでいたら、間違いなく影響を受けていたことだろう。……これもタイミングか。

『柳家喬太郎のピロウトーク』

柳家喬太郎のピロウトーク柳家喬太郎のピロウトーク
(2013/09/18)
柳家喬太郎

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人気落語家、柳家喬太郎がパーソナリティを務めるTOKYO FMの番組『柳家喬太郎のピロウトーク』より、2010年~2011年12月までのトーク傑作選と録りおろし音源を収録したCD。いつもの落語に登場する振り切れたキャラクターそのままのテンションで、師匠の根底にさらりと触れる“ピロウトーク”、三分間の三題噺を即興で創作する“3×3トーク”、師匠の持ちネタ(古典60・新作40)について紹介する“落語大全集”などのトークを展開している。

これまで、観客の前で落語を演じる師匠しか聴いたことがなかったこともあって、ラジオパーソナリティとしての佇まいはとにかく新鮮だった。また、客を相手にしているわけではないからなのか、話の内容が妙に振り切れていて、落語のマクラを更に濃密にしたような話がイチイチ面白い。『食べもの』についての話なんて、落語家としてのエアー蕎麦食いのスキルを存分に発揮、下品だけれどやめられない業の肯定(そんな大袈裟なコトでもない)が如実に語りこまれていて、非常に面白かった。ちょっとしたラジオコントが収められているのも嬉しい。基本、師匠の自虐というか、番組の宣伝というか、その程度の内容なんだけれど、いっちいち下らない。なんだよ『ツンパマン』って! なんか想像しちゃったじゃないか! 。……あ、あと、最初の落語大全集が『諜報員メアリー』だったのには笑った。新作の中でもかなりブッ飛んだネタが一発目って!

柳家喬太郎落語秘宝館3柳家喬太郎落語秘宝館3
(2006/10/30)
柳家喬太郎

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↑『諜報員メアリー』収録。

そんなこんなでけっこう面白かったんだけど、編集でトークが細かくカットされているが故の物足りなさも少し。第二弾のリリースも検討中ということなので、次はもうちょっとじっくりトークが聴ける(贅沢をいうと10分超くらい)時間を設けてくれていると嬉しいな。三題噺も落語紹介もコントも楽しかったけど、やっぱりディープな自論が一番面白かったから。

『芸談・食談・粋談』(五代目柳家小さん×興津要)

芸談・食談・粋談 (中公文庫)芸談・食談・粋談 (中公文庫)
(2013/05/23)
柳家 小さん、興津 要 他

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落語家では初の人間国宝に選ばれたことでも知られる五代目柳家小さんと『古典落語』『古典落語(続)』の著者である興津要の対談本。小さん夫婦がお互いのことを綴ったエッセイに始まり、小さんの出生、入門、芸談などが対話形式で展開している。まだまだ落語を聴き始めて日が浅い私には興味深い話も幾つかあったのだが、読了後には殆ど覚えていないという体たらく。私は対談本が好きな人間で、実際にそういう類いの本をよく読むのだが、いつもこういう調子である。読んでいるときは楽しいのに、読み終わったら何も覚えていない。テンポのいい会話が展開されている様子、それだけを楽しんでしまっているきらいがある。まあ、それも楽しみ方の一つとして、自分で自分に納得してしまうしかない。ただ、“花より団子”なタチもあってか、終盤で繰り広げられる食い物屋の話はやけに頭に残っている。欲望に忠実だね、どうも。幾つか抜粋してみる。

小さん「上野・浅草辺でうなぎというと、むかしから食ってるせいか、どうしても伊豆栄にいっちまう」
興津「場所も池の端だし、戦災をうけなかった家だから、建てものにも情緒があるしね」
小さん「かば焼きも、白焼きも、どっちもいいもんだ」
興津「おやじさんが能書きいうだけのことはある(笑) でも、師匠といくと、白焼きで、かなり飲んで、そのあと、がっちりとうどんをやるから、腹が張っちまって(笑)」
小さん「どうして、ああ食えるのかねえ(笑)」
興津「いや、あきれたもんだ、おたがいに(笑)」


小さん「最近流行の炉ばた焼きでは、あづまをわすれちゃいけない」
興津「焼きとり、生鮭、生いか、鯛の粕漬、さつま揚げなんてんで、大衆的で、種類も多いし、第一、値だんが安いのが魅力」
小さん「だから、よけいにうまい(笑)」
興津「おでん、じゃがいもの煮付けなんてものもなかなかいける」
小さん「ここの名物ぞう煮をわすれちゃいけない」
興津「これを英訳して、エレファントボイルド(象煮)(笑) 通称エレファント」
小さん「エレファントっていうと、おやじがすましてぞう煮を持ってくる(笑)」


興津「新橋の烏森のつるやの焼きとりはもつ焼きの根だんでちゃんとした鳥で、安いし気はきいてるし、いいもんだ」
小さん「銀座には目もくれずに、烏森まで飛んでくるところがいいね(笑)」
興津「目はくれたいんだけど、予算の都合で、銀座はオミット(笑)」
小さん「いつもいっぱいなのは、客も味と値だんを心得てるからだ。皮をポン酢で食うのもうまい」
興津「つくねも、すなぎもも一流だ。それに、ここの酒は、一流の銘柄の酒を二、三種混ぜて、独特の味をだすそうだけど……」
小さん「そりゃあ売れるからできることだ」
興津「ここの店は、店の連中も客もジャイアンツファンだから注意しなくっちゃあ……以前、タイガースが勝ったラジオを聞いて志ん馬(※八代目。本書では“六代目”と表記)が拍手して、ひとりシラけたことがある(笑)」
小さん「まぬけだね、あいつは(笑)」


1975年出版の本なので、既に閉店している店もあるようだが、幾つかの店は残っているらしい。東京観光の際には、是非とも伺ってみたいと思う。

基本的には「昔は良かった」という印象の話を展開することが多くて、そういう論調が苦手な私はたびたび苦笑いを浮かべたが、しかし、年を取れば多くの人がそういう思考に到達してしまうのだと思うと、まあそれも一つの考えだなと納得し、気付けば二人の楽しそうな会話を傍で聞かせてもらっている丁稚の気分になっていた。「あ、師匠、そろそろお時間でございます……」。とどのつまり、押しつけがましくない、いい本だ。

談志が愛した不精の女房

立川談志『新釈落語噺 その2』を読む。

新釈落語噺〈その2〉 (中公文庫)新釈落語噺〈その2〉 (中公文庫)
(2002/05)
立川 談志

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『新釈落語噺』とは、落語界の風雲児・立川談志が古典落語を独自の視点と分析によって解説した“落語論”である。タイトルの由来となっているのは太宰治『新釈諸国噺』だが、師曰く「内容的には『お伽草紙』に近い」とのこと。私はそのどちらも読んだことがないので両者の違いは分からないが、“栴檀は双葉より芳し”という言葉の通り、家元(※談志は立川流家元のため、師をこう呼ぶ人が多い)が幼い時分に読んで感動したというのだからきっと傑作なのだろう。現在、両方の作品を収めた文庫本が、気軽に手に出来る値段で売られている。いつかは読んでみようと思っているような、いないような。

お伽草紙 (新潮文庫)お伽草紙 (新潮文庫)
(2009/03)
太宰 治

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話を戻す。この『新釈落語噺』シリーズは、古典落語を解説している本ではあるのだが、その内容が時に家元自身の経験談へと脱線してしまうことも少なくない。落語について真剣に学ぼうという人間にしてみれば迷惑な話かもしれないが……そもそもそんな輩がいるのかどうか……そんな私的な話が本筋と同様に、或いはそれ以上に面白いこともあるので、読んでいる方としては気にならない。そんな脱線話の中でも、私が特に興味深く読んだのが『不精床』だ。

『不精床』とは、その名の通り不精な床屋が登場する落語である。ふらりと入った床屋の主人がトンデモナイ不精者だったために、やっぱりトンデモナイ目に合わされてしまう男の姿が描かれている。となると、当然の如く、話の方も不精者に関するエピソードに脱線することになるのだが……ここで家元は、実の女房について語っているのである。これは個人的な印象に過ぎないが、家元がご存命の折に、私は師がいわゆる“所帯持ち”だということにまったく気付かなかった。妙な話になるが、子どもがいるということを知ってはいたが、女房の存在にまるで興味を持てなかったのである。しかし、考えてみると、これほど興味深い存在もない。落語の世界のみならず、芸人の世界にまで広く影響を与えてきた“芸人の巨星”と日常を共にしようとした女性……それは一体、どのような人物だったのか。

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『新潮落語倶楽部9 古今亭寿輔』

新潮落語倶楽部 その9 古今亭寿輔 「英会話」「猫と金魚」「地獄巡り」新潮落語倶楽部 その9 古今亭寿輔 「英会話」「猫と金魚」「地獄巡り」
(2012/10/17)
古今亭寿輔

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■『英会話』(01年2月20日/15分14秒)
隣の家の子は母親のことをママと呼ぶらしい。これからの子どもは英語が使えるようにならないといけない、丁度我が子が家に帰って来たから英語で呼んでみよう……。テキトーな英語が次から次へと流れるように繰り出される珍妙な新作落語。「優雅な洋服をドレッシング」「ワンピース、ツーピース、ロングピース」「人間にはマンがつくというなら、酒屋さんはキッコーマン?」など、実にバカバカしいボケが飛び交っている。そのシチュエーションやネタのセンスから、戦後に作られた演目であることは想像に難くないが、それでも笑ってしまうのは寿輔師匠の手腕が故か。ただ、ネタそのものよりも、マクラのインパクトの方が衝撃的。ねっとりとした口調で語られる自虐ネタは、しかし絶妙な軽さがあって、なんともいえない面白味を帯びていた。

■『猫と金魚』(03年3月30日/16分44秒)
「のらくろ」の作者として知られる田河水泡が手掛けた新作落語。隣の家の猫に金魚を食べられてしまった。新しく金魚を買ってきたはいいが、また食べられないようにしなくては……。「殆どの人は努力なんてしてもしなくても同じなんですよぅ~!」というマクラがなんとも凄い。こういう的を射た皮肉がグサッと胸に突き刺さりながらも、なんだか妙に笑えるから不思議だ。そういう空気を作り出してしまえる力量があるということか。肝心のネタも軽いリズムで面白いが、ところどころに冷ややかな要素も含有。「(金魚が)死んでも眺めることは出来るでしょ?」なんて、なかなか凄味があっていい毒であった。

■『地獄巡り』(02年9月30日/15分01秒)
桂米朝が演じる上方落語の大ネタ『地獄八景亡者戯』を演出し直した一席。亡者たちが初めてやって来た地獄で得る様々な発見を、小ネタ時事ネタ流行ネタを散りばめて展開している。地獄のホテル、地獄の有名人ショップ、地獄の歌舞伎に落語などと、地獄ネタならなんでもござれ。先の二席の様に、寿輔師匠ならではの軽さと毒舌は楽しめないが(その両方の要素がネタの根源に植えられているネタなので、入る余地が無かったのかもしれない)、原点である『地獄八景亡者戯』の空気をしっかりと残した一品に仕上がっている。ただ、個人的には、もうちょっと欲しかった気も。せめて、あと5分。

『落語こてんパン』(柳家喬太郎)

落語こてんパン (ちくま文庫)落語こてんパン (ちくま文庫)
(2013/04/10)
柳家 喬太郎

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当代きっての人気落語家、柳家喬太郎が五十席の古典落語にまつわるエピソードをつづったエッセイ本。ネタの粗筋や見どころ・聴きどころについても書かれていて、落語愛好家は勿論のこと、初心者にも優しい内容になっている……んだけどさー、本当のところをいうと古典落語を知るのには音源をあたるのが一番だと思うんですヨ、私は。昭和の名人と呼ばれた歴々の口演を収めたCDやDVDも数多くリリースされてるし、なにより人気・実力を兼ね備えた現役の落語家だって沢山いるんだから。先に文章で内容を理解するよりも、レンタルショップかどっかで人気落語家の音源・映像を借りた方がいいんじゃないかなあ、とか思っちゃったりなんかしちゃったりして。

あとさ、先に「落語愛好家は勿論のこと」って書いちゃったけれど、本当は落語愛好家の人向けでもないんだよね。というのも、(回にもよるけど)文章の半分くらいは落語のあらすじだから、既に落語を識っている人には魅力半減なのよさ。で、解説にしても、そこそこ落語をかじっている人だったら割と聞き覚えのある話が多くて、そういう意味ではやっぱり初心者向け。でも、やっぱり初心者にはまず落語そのものに触れてもらいたいから……そうなると、誰向けの本なんだって話になっちゃう。多分、ベストの使い方としては、この本で興味を持った落語の音源なり映像なりをあたってもらう、いってみればガイド本として読むべきなんだろう。ただ、ガイド本としても、ちょっと内容が偏りすぎ。ほぼ毎回、この落語を得意としているオススメの落語家の名前を紹介しているんだけれど、柳家関係者が多すぎる! 幇間じゃあるまいし、自分の師匠の名前をどんだけ出すんだよ!(まあ、さん喬師匠はテクニシャンな落語家なので、仕方ないといえば仕方ないんだけれど) こういうのを目の当たりにすると、落語評論家といわれている人たちもあれでしっかりしているんだなーっ、とか思ってしまう。

なーんて、ケチョンケチョンに書いてしまったけれど、柳家喬太郎というイチ落語家がネタに対してどのように向き合っているのかが分かるという意味では、ファン必見の一冊になっていると思う。で、自称・喬太郎師匠のファンとしては、けっこう楽しく読んだのよね、実際。あーっ、そうだそうだっ、そういう楽しみ方がベストなんじゃないか。まず、レンタルショップで喬太郎師匠のCDかDVDを入手して、聴くなり観るなりして、そこそこファンになってみたところで本書を読んで、これらのネタを実際の師匠がどういう風に演じているのか思いを馳せてみる。で、たまらなくなってきたら、実際に寄席なりホールなりに出向いてみて、ナマの口演を体感する……うーん。なかなか悪くないんじゃないか。ただ、それをするには、喬太郎師匠のソフトってあまりにも少な過ぎるんだよネ。なァーんとかなんねェーもんかなァー。

とりあえず師匠、次は新作落語について語る本でどうっスか。

『落語CDムック 立川談志3「居残り佐平次」「あくび指南」』

落語CDムック立川談志 3 (Bamboo Mook)落語CDムック立川談志 3 (Bamboo Mook)
(2011/02/15)
立川談志、川戸貞吉 他

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【居残り佐平次】(1968年7月25日)
小学三年生か四年生だった頃、クラス全員が居残りをさせられたことがあった。どういう事情だったのか詳しくは覚えていないが、確かクラス共用のボールを乱雑に扱ったとかいうことで、「これからどう使っていけばいいか、ちゃんと相談しなさい」という担任の指示があったように記憶している。当時、休み時間には本ばかり読んでいた私にしてみれば、これは完全なるとばっちりであったので、話し合いにはまったく参加しようとはしなかった。いや、そもそもの話、話し合いというものは行われなかった。気が付くと、クラスメートのほぼ全員が男子のグループと女子のグループに分かれていて、そこには対立構造が出来上がってからだ。結果、話し合いはまったく噛み合うことなく、無駄に過ぎていく時間だけがそこにはあった。当然のことながら、中には早く帰りたがっている生徒や、何がきっかけだったのか泣き出している生徒もいたが、私はその状況を我関せずを決め込み、むしろそれを楽しんでいた。一見すると、面倒でややっこしいことも、自分が深く関わっていなければ無責任に楽しめる。そんなことを学んだ一幕であった。

学校や会社などで使われているイメージの強い“居残り”というシステムだが、男が女遊びをするために訪れる楽しいトコロ、遊郭でも使われている。つまりは勘定を払えない客を引き止める、居残りさせるわけだ。ところが、この居残りになるために、わざと遊郭にやってくるバカもいる。『居残り佐平次』の主人公、佐平次である。銭の無い連中を「オレがなんとかする」と言いくるめて、一緒に品川の遊郭へと繰り込んだ佐平次。他の連中は先に帰らせ、手前は言い訳だか能書きだかを垂れに垂れて、どうにかこうにか部屋に居座ったが、店の人間に詰め寄られて己の無銭飲食を告白。悪びれもせず、自ら布団部屋で軟禁状態に。ところが、この男が部屋からこっそり抜け出して、店の人間に構ってもらえない客のところに顔を出して相手にし始める。これがまた、バカに評判がいい。気が付けば、店の人間も佐平次のことを頼るようになり、客からの要望があれば「ちょいと、いのど~ん!」とお呼びがかかるほど。仕事を取られた店の連中も困り果て……。

器用に客の要望に答えられる佐平次は、ごく普通に遊郭の従業員としても出世できるんじゃないかというくらいに多才だ。そこに説得力を持たせるためなのか、原点では、胸を患っていて、その治療のため遊郭に居残っているという設定になっている。『居残り佐平次』をモチーフとした映画『幕末太陽傳』に登場するフランキー堺扮する佐平次も病気持ちだ。しかし、談志演じる佐平次は、病気も何もしちゃいない。健康そのもの。では、どうして居残っているのかというと、ただ居残りたいから居残っている。人生成り行きで楽しんでいる。そんな談志の自説を知ってからというもの、『居残り佐平次』を聴くたびに、あの日の居残りを思い出す。無責任だからこそ楽しめた、あの成り行きさ。責任を伴う人生を過ごしている今、あの楽しさはなかなか味わえない。ああ、佐平次みたいに生きられないものか……。

【あくび指南】(1967年11月19日)
以前、小説家でノンフィクションライターの中山涙先生の自宅で、夕飯と晩酌をご馳走になったことがあるのだが、そこで「ダウンタウンの『あ研究家』って、『あくび指南』なんだよねえ」というような話が持ち上がった。当時の私は先生の言い分に対して直感的に違和感を覚え、「そうでしょうか?」と反論の構えを見せたのだが、実はダウンタウンの『あ研究家』をきちんと認識していなかったので、明確に答えを提示することが出来ないまま、気が付くと次の話題へと流れてしまっていた。あれから一年、なんとなく意識はしていたものの、きちんと確認してはいなかったのだが、先日、ようやく動画サイトで『あ研究家』を見ることが出来た。

ダウンタウンの『あ研究家』とは、松本人志扮する異質の研究家“あ研究家”が様々なシチュエーションで発せられる「あ」を紹介するというコントだ。日常的に口にする可能性の高い「あ」を演じることで、観客が「あ」の発せられる状況を思い起こして笑うという、あるあるネタに似た傾向のネタである。しかし後半、「あ」と同じシチュエーションを「み」に置き換えただけの“み研究家”が現れる。“あ研究家”と同じ展開を意識していた観客は、その裏切りに思わず笑ってしまう。そして、更に“フィリピン研究家”という実在しそうな研究家が登場するのだが、これもまた同様の展開を迎える。しっかりと固められたフォーマットを引っくり返してしまう構成は、バカリズムの『トツギーノ』に似ているといえるのかもしれない。

一方の『あくび指南』はというと、こちらもかなり変り種のネタだ。そのストーリーは、近所に“あくび指南所”という場所が出来たから一緒に行かないか、と友だちを誘ってやってきた男が、あくびの先生にあくびの方法を習うというもの。一見すると冗談の様だが、教えるほうも教わるほうもマジメだ。まずは春夏秋冬四季折々のあくびのうち、一番易しい夏のあくびを教えてもらう。あくびが出るシチュエーションを提示し、実際にあくびをぶわぁぁぁぁぁぁっと吐く。男もこれをやろうとするが、急ごしらえで覚えようとしているためか、なかなかシチュエーションを再現できない。そんな様子を何度も何度も見ているうちに、付いてきた友だちの様子が……。元来、生理として吐き出される筈のあくびを習うという無意味さ、これを談志は「倦怠の極致」、そして「最も凄い落語」と語っている。だが、談志自身は、あまりこのネタを演じていない。自分には向いていないという認識があったのかもしれない。

『あ研究家』と『あくび指南』の類似点は、どちらも「あ」という単純な言葉(もとい単語)が出てくるシチュエーションを描いているというところだろう。ただ、次から次へとシチュエーションを提示する『あ研究家』に対し、『あくび指南』におけるシチュエーションは“夏のあくび”のみ。また、先に書いたように、ネタの構成もまったく違う。『あ研究家』はきちんとリアルと直結し、その上で崩壊しているが、『あくび指南』は最初から最後まで完全にナンセンス。だから、『あ研究家』と『あくび指南』はやっぱり違うと私は思います……と、とりあえず自分の意見をまとめてみたんですが、先生どうですか?

『落語CDムック 立川談志2「黄金餅」「野晒し」』

落語CDムック立川談志 2 (Bamboo Mook)落語CDムック立川談志 2 (Bamboo Mook)
(2011/01/15)
立川談志、川戸貞吉 他

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【黄金餅】(1972年3月19日)
こんなことを書くと反感を買うかもしれないが、かつて私は貧乏に憧れていた時期があった。……といっても、駅のホームや橋の下などで、こじんまりと密集しているホームレスになりたかったわけではない。銭を持たないことによって追いつめられた感情、何も捨てるもののない状態から生じる衝動、それら全てを包括したいわば“狂気”に憧れていたのである。無論、今の私にとって、貧乏になってしまうことは恐るべき事態である。もし、今の仕事を放棄して、完全に一人ぼっちの状態でイチから生活していかなくてはならないというような状況になったとしたら、ほんの数ヶ月のうちに私は生きることを諦めてしまうだろう。……今にして思うに、この不可思議な羨望の原因は、恐らく当時に愛読していた漫画『迷走王 ボーダー』及び『聖凡人伝』だと考えられる。どちらの漫画の主人公も貧乏であり、常に不安定で狂気的な感情を孕んでいた。それにしても、想像力のない憧れである。

貧乏人が数多く登場する古典落語の世界において、最も貧乏と狂気に焦点をあてたネタといえば『黄金餅』だろう。物語の舞台は下谷の山崎町にある貧乏長屋。乞食坊主の西念が病気で寝込んでいた。と、そこに様子を見に来たのが、金山寺味噌を売っている隣人の金兵衛。好きな物を買ってきてやると聞くと、西念は餡ころ餅が二朱ほど(※かなりの量と考えていい)食べたいという。言われたとおりに餡ころ餅を二朱ばかり買ってくると、哀れ金兵衛さん、見られていると食えないからと餅だけ取られて外に追い出されてしまう。しかし、あれだけの餅を本当に食べられるのか気になった金兵衛、自分の家に戻って壁の穴を使って西念の様子を覗いてみる。すると西念、餡ころ餅から餡を取り出し、胴巻から溜めこんだ大金を出して、それらを餅に包んで食べ始めた。なんともおぞましい光景に、金兵衛も思わず驚きの声を漏らす。途端に、「金さーんっ!」叫びながら西念が苦しみ始める。慌てて金兵衛が部屋に飛び込んだが、あっという間にこと切れてしまう。さて、西念の腹の中に仕舞われてしまった大金、どうにかして取り出せないものか……。

とにかく、西念の銭に対する執念、或いは、その西念の腹から銭を奪い取ろうとする金兵衛の凄味に打ちのめされる。生前、談志が口にしていた、「落語は人の業の肯定である」を体現したネタと聞いているが、なるほど、それだけの迫力だ。一方で、下谷の山崎町から麻布絶口は釜無村の木蓮寺へと移動する行程を言い立てで表現するところが、一つの聴きどころにもなっている。また、談志の言い立ては、現代の地名がポンポン飛び出すので、なんとも楽しい。さて、ネタの全編を聴くと、西念も金兵衛も業という意味では凄まじいが、個人的には金兵衛に「あ、あ、あ、あーっ!!!」と驚愕の声をあげさせた西念の方が上じゃないかと思っている。まあ、死人に口無し、総取りした金兵衛の勝ちははっきりしているのだが……。もし、貧乏に憧れていた頃の私に、この『黄金餅』を聴かせたとしたら、どういう反応を見せただろうか。「俺も死ぬ間際に銭を餅に包んで食べてぇな!」などと言っただろうか。流石にそこまでバカじゃないとは思いたいが……ことによると、近所の金持ちの葬式にこっそり忍びこんで、腹をかっさばき……うーん(グロ過ぎて卒倒)。

【野晒し】(1975年9月7日)
モテない。どういうわけかモテない。いや、モテない理由は分かっている。私という人間が、異性に対して肉体関係以上の深い興味を抱いたことが無いからだ。もうちょっと分かりやすく書くならば、「この人と同じ時間を過ごしたい」「この人と一緒に暮らしたい」と心の底から思えるような異性を見出せていないからだ。ただ、そもそもの話をすると、それに該当する人物を見出すためには、複数の異性とそれなりに接触する機会を得ていなくてはならない。だが、ファーストインプレッションの段階で早々に諦めてしまっていることが多いためか、そこから更に深い関係に進行し得ない。結果、「誰でもいいや」という投げやりな感情が芽生えてくるわけだが、無論、そのような理性を下半身に売り払ったような人間に、異性が興味を抱いてくれるはずもない。かくして、このままの状態では、私がモテないという状況に変化が訪れることはないのである。うーん、哀しいネ。

ある朝、長屋の御隠居の元へとすっ飛んできたのは、隣に住んでいる八五郎。いきなり一両よこせと申し出るのだが、渡す理由は無いと断られてしまう。そこで八五郎、普段から女性は嫌いだ、私は釣りだけが趣味だと言っているが、昨夜部屋に連れ込んでいたあの女は一体なんなんだ、と詰め寄る。しかし御隠居、まったく身に覚えがないと白を切る。夢でも見たんだろうとまで言い切ってしまう始末。ところが八五郎には夢ではない証拠があった。夜中に目を覚ますと、男女のヒソヒソ話がするので耳をすましてみたところ、声の元は御隠居の部屋。確認するために壁に穴を開け、そっと中を覗き込んでみると、そこにはいい女に身体のコリをほぐしてもらっている御隠居のみだらな姿。あの壁の穴がなによりの証拠、どっからあの女を連れ込んできた! これを聞いた御隠居、事情を説明する。昨日、釣りのために向島まで出掛けると、そこで野ざらしを見つけた。可哀想にと手向けの句を読んで酒をかけると、夜中にその野ざらしの幽霊がお礼に訪ねてきた。つまり、八五郎が目にした女とは、野ざらしだったのである。しかし、幽霊でも構わないから、あんな美人とねんごろになりたいと、八五郎は御隠居から釣り竿を強引に借りて向島へ……。

古典落語に登場する男には、女にモテない連中も数多く存在する。しかし、そういう類の男たちが登場するネタの多くは、女にモテないというよりも、女郎というプロに弄ばれてしまうという印象を与えるものだ。ところが、この『野晒し』に登場する八五郎は、正々堂々と女にモテないとしか思えない人物である。そうじゃなければ、わざわざ釣り竿を借りて向島まで行って、野ざらしを見つけて女の幽霊に来てもらおうなどという行為に及ぶわけがない。向島に着いてからの挙動も凄まじい。幽霊とのイチャイチャぶりを妄想するあまりに、他人の迷惑顧みず、なんとも傍若無人な振る舞いに及ぶ。その自己中心的な考え方は、まさしく非モテをこじらせたダメ男に他ならない。ただ、古典落語としては、その行動や背景について掘り下げるよりも、リズムとテンポで聴かせるネタとして演じられることが多い。“野ざらしの柳好”とも呼ばれた三代目 春風亭柳好の影響が大きいのだろう。談志の『野晒し』もリズミカルで、向島で釣り糸を垂らしながら陽気に謡う様はなんとも軽妙。とはいえ、当人が「究極に落語一席を選ぶとすれば柳好の『野ざらし』」と公言しているように、やっぱり三代目柳好の音源には敵わない。モテないことをウジウジするくらいなら、いっそ幽霊を相手取った方が前向きで健全なのかも……それって現代で言うところの二次オタってことかーっ(多分違う)

落語CDムック『立川談志 1「芝浜」「源平盛衰記」』

落語CDムック立川談志 1 (Bamboo Mook)落語CDムック立川談志 1 (Bamboo Mook)
(2010/12/15)
立川談志、川戸貞吉 他

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【芝浜】(1982年12月9日収録)
幼い頃の私は、大晦日をたまらなく愛していた。それは決して、年が明けて正月になると、両親や祖父母、或いは素晴らしき御親戚一同からお年玉という名のお小遣いが戴けたからではない。私は年末に漂っている緊張感が、好きで好きで仕方がなかったのである。全校生徒が見ている前で体育館のステージに立つ時の緊張感とも、コンクールに投稿しようと考えている自作の小説の最初の一文を原稿用紙に書き込んだ時の緊張感とも違う、世界中の空気が一緒になってピンと張り詰めているような感覚。その、普段はあまり味わうことの出来ない緊張感が、私は大好きだった。当時、幼かった頃の私には、その緊張感がどうして生み出されるのかがよく分からなかったが、大人になってみて、なんとなくその理由が分かった。あれは、今年一年という年が、静かに息を引き取ろうとしている、臨終によって生じる緊張なのである。今年を粛々と見送り、新年を盛大に迎え入れる。その準備をしなくてはならない最終日の緊張なのである。

古典落語『芝浜』の主な舞台は大晦日だ。普段から酒ばかり飲んでいて、ろくに商いに出ようとしない魚勝という男がいるのだが、このままじゃ飯が食えないと女房にせがまれて、ある日の朝、仕方なしに芝の河岸へ出かける。ところが、間抜けにも女房が起こす時間を間違えたようで、河岸の問屋が開いてない。腹ぁ立てるも、しょうがねぇ……と、芝の浜に下りて、海の水で顔を洗ったりなんぞしていると、そこで汚い財布を発見する。なんとなしに取って中身を確認すると、これが四十二両という大金。慌てて家に戻って女房に見せつけ、これからはもう死ぬまで遊んで暮らせるぞーっと、ニコニコしながら昨夜の酒を……。明けて、朝。女房の声で目を覚ました魚勝は、商いに行っておくれよとせがまれる。何ィ言ってやがる、ウチには四十二両という大金が……何ィ? あれは夢だとォ? 女房が言うには昨日、魚勝はお昼ごろに目を覚ましたかと思うと友達連中を連れて来て、めでてぇめでてぇと酒に肴にドンチャン騒ぎ、そのまま寝ちまって今に至るという。つ、つまり、財布を拾ったってのは夢で、飲んだり食ったりしたのは本当? この一件で深く反省をした魚勝、酒とはスッパリと縁を切り、どうにかこうにか商いをイチからやり直し……三年目の大晦日……。

談志の『芝浜』には、私が愛したあの大晦日の空気が充満している。何もかもが片付いて、新年を迎える体勢になっている魚勝と女房の会話には、それでも年末の緊張感がそこはかとなく漂ってくる。具体的に書くと、状況はすっかり落ち着いているにも関わらず、なんだか口数が多くなって、なんだか忙しない。この気持ちの落ち着かなさこそ、年末のあの緊張感なのである。そして、その流れから、女房が魚勝に漏らしてしまう告白。この告白の場面こそが『芝浜』の醍醐味であるとされているが、私は、むしろその前段階である年末の空気を愛したい。……女房よりも空気に執着してしまう、そういうところが私のモテない原因なのだろうか?

【源平盛衰記】(1982年6月18日収録)
源平の戦いといえば、まず思い出されるのは手塚治虫の『弁慶』である。文字通り、源義経の忠実な家来として知られる武蔵坊弁慶の人生を、ギャグを散りばめて描いた作品だ。当時、角川文庫から、『ロストワールド』『来たるべき世界』『メトロポリス』などに代表される手塚治虫の初期作品シリーズが発売されていて、私はそれらを収集していたのだが、その中の一冊『平原太平記』に本作が収録されていたのである。なにせ中学生くらいの頃の話なので、具体的な内容についてはまったく覚えていないのだが、とにかく面白く読んだことだけは覚えている。歴史的史実という大黒柱がしっかりとしているから、無茶苦茶なギャグをブチ込んでも、ストーリーが揺らがない。安心して、楽しく読める傑作だった。

『源平盛衰記』は地噺形式の古典落語である。地噺とは、登場人物同士の会話ではなく、主に落語家自身の語りによって構築されているネタのことだ。『源平盛衰記』以外にも、『お血脈』『目黒のさんま』『紀州』『たがや』などのネタが地噺とされている。この『源平盛衰記』のシステムは、この『弁慶』とまったく同じと言っていい。いや、もしかしたら、手塚治虫も『源平盛衰記』に着想を得て『弁慶』を描いたのかもしれない。何の根拠もないけれど、時代の重なりといい、ギャグを放り込むタイミングといい、実によく似ている。閑話休題。『弁慶』が武蔵坊弁慶の物語であるように、『源平盛衰記』は『平家物語』をモチーフに源平の合戦について描いている。但し、談志の源平は吉川英治『新平家物語』をモチーフとしているため、既存の『源平盛衰記』とは根本から違っている。……どうも、こういうストーリー性の無い演目を取り上げると、解説がどうも堅苦しくなるな。とりあえず客観的事実で外堀を固めてみたが、果たしてここまで付いてきてくれているのかしらん……?

『源平盛衰記』は自由度の高いネタなので、オリジナルギャグを幾らでも放り込むことが出来る。つまり、演者のセンスが大きく反映されている。そして談志の『源平盛衰記』、大変に面白い。考えてみれば、そもそも落語については人一倍分析していて、しかも各ジャンルのエンターテインメントに対して興味本位に突き進んでいくタイプの談志、そりゃ面白くなって当然だ。語りの部分も味わい深く、故に不意のギャグがたまらない。時事ネタも多いが、それを超越することも多い。あんまりウケていないけれど、セントルイスブルースのくだりなんか笑わずにいられない……。理解できなかったとしても、この流暢な良い立てだけでも惚れ惚れすること間違いなし。とにかく、この凄さは聴けば分かる。分からないなら、しょうがない。

志の輔らくごの了見。

先日、三遊亭圓生『八五郎出世』を聴いた。

NHK落語名人選(41) 六代目 三遊亭円生 八五郎出世・夏の医者NHK落語名人選(41) 六代目 三遊亭円生 八五郎出世・夏の医者
(1993/02/01)
三遊亭円生(六代目)

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『八五郎出世』とは、文字通り出世を描いた古典落語だ。お殿様・赤井御門守に見初められた裏長屋のお鶴が、それまで子どものいなかった殿様の男子を出生し、“お鶴の方様”と呼ばれる立場になる。そのことを受けて、兄である八五郎が屋敷に招かれるのだが、職人気質で乱暴な八五郎は、礼儀作法を重んじるお屋敷でもいつもの通りに振る舞ってしまう。しかし、その姿を気に入った殿様が、八五郎を士分に取り立てる……つまり、一介の職人が侍に“出世”する物語、それが『八五郎出世』というわけだ。ちなみに、『妾馬』という演目で呼ばれることもある。

『八五郎出世』は、乱暴な八五郎の言動とお屋敷の厳粛な雰囲気のギャップを描いた、滑稽噺として演じられることが多い。今の時代に殿様は存在しないが、目上の人を相手にする緊張の場面は現在でも体感することが出来るので、お屋敷で普段通りに振る舞う八五郎の面白さを容易に想像できるからだろう。しかし、圓生の『八五郎出世』は、単なる滑稽噺では終わらせない。圓生は『八五郎出世』の世界に母親を登場させることで、“お鶴の方様”と呼ばれる身分になってしまった娘に会いに行けない辛さ・切なさを滲ませ、人情噺としての側面を引き出しているのである。とはいえ、やはり基本的には滑稽噺としての了見を見失わせず、すぐさま通常の流れに戻されるのだが……、笑いの中にうるっとくる要素をスッと挿し込む、その絶妙な調合がなんともたまらなかった(これが圓生オリジナルの演出なのかは、勉強不足により不明)。

これを聴いて、思い出したのが立川志の輔『新・八五郎出世』である。

志の輔らくごのごらく(5)「朝日名人会」ライヴシリーズ46 「新・八五郎出世」志の輔らくごのごらく(5)「朝日名人会」ライヴシリーズ46 「新・八五郎出世」
(2007/12/19)
立川志の輔

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『新・八五郎出世』のストーリーは、『八五郎出世』と大して変わらない。お鶴が赤井御門守に見初められて男子を出産、屋敷で八五郎がいつもと変わらぬ振る舞いを見せて……と、ここまでは同じだ。しかし、志の輔の『新・八五郎出世』は、ここから大きく改変されている。殿様から「望みはあるか」と聞かれる八五郎は、ケガをした母親の治療費を払うために質屋に入れた道具箱を引き出してもらいたい、と頼む。殿様は快く引き受ける。安心する八五郎。しかし、様子が変わったお鶴の姿を見て、考えを改める。「なんにもしてくれなくてもいいから、いっぺんでいいから、ウチのおふくろに孫を抱かせてくんねえかな……?」。そんな八五郎を気に入った殿様は、八五郎を士分に取り立てようとする。しかし、八五郎は殿様の申し出を断ってしまう。何故ならば、「おふくろと二人暮らし! おふくろが一人になっちゃうでしょ!」。それではおふくろも屋敷に迎えようというと、「おふくろはね、井戸端がないと生きていけないの」……。

圓生と同様、志の輔も母親をクローズアップした演出を取っているが、滑稽噺のスパイス的に母親の話を調合していた圓生に対し、志の輔は後半部分のほぼ全てを「母親を想う八五郎」のために使用している。確かに、現代の感覚でいえば、身分の違いのために初孫を抱けない母親というのは、些かナンセンスではある。だからこそ、母親に救いがある志の輔の『新・八五郎出世』は、圓生の『八五郎出世』よりも現代において非常に正しいといえるのかもしれない。

とはいえ、“江戸っ子は五月の鯉の吹き流し”という言葉にも表れているように、こういった哀愁はどうも江戸っ子には似合わない。ましてや、ここまで真剣に母親のためを思っている江戸っ子なんて、落語の世界にはまず有り得ない画である。『天災』『二十四孝』『文七元結』の様に、蹴っ飛ばされたり泣かされたりして、ぼっこぼこに乱暴に扱われるのが江戸っ子の母親なのだ(ヒドいねどうも)。そういう意味では、『新・八五郎出世』はあまりにも非落語的であるといえる。だが、そんな『新・八五郎出世』を演じている立川志の輔という落語家は、他のどの落語家よりも高い人気を誇っている。何故か。

その理由について考えている最中、ある本にその答えになるかもしれない文章を見つけた。その本とは、志の輔の師匠である立川談志が、自らの人生を語りで振り返っている『人生、成り行き』である。この本で、談志は自身の言葉である「落語は業の肯定である」について、次の様に語っている。

人生、成り行き―談志一代記 (新潮文庫)人生、成り行き―談志一代記 (新潮文庫)
(2010/11/29)
立川 談志

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立川流創設まで、あたしは<人間の業の肯定>ということを言っていました。最初は思いつきで言い始めたようなものですが、要は、世間で是とされている親孝行だの勤勉だの夫婦仲良くだの、努力すれば報われるだのってものは嘘じゃないか、そういった世間の嘘を落語の登場人物たちは知っているんじゃないか。

【中略】

これまでは人間は業を克服するものだ、という通念が前提になっていたわけです。ところが時代が変わって、それまで非常識とされてきたものが通用するようになった。つまり親が気に入らなければ殴るのは当たり前、仕事したくないのも当然、子どもを放っておいてパチンコして殺しちゃうような時代になった。するといまや、それでも親孝行してしまい、それでも努力してしまうのが<人間の業>だということになりかねない。けれども、人情話や忠君愛国を描くのはあたしは嫌だ。

第九回「談志落語を自己分析すれば」より


ここで談志が話している「親孝行してしまい、それでも努力してしまうのが<人間の業>だということになりかねない」という一文に、私は興味を抱いた。これはあくまでも仮説だが、志の輔は談志が嫌っていた現代における人間の業、即ち「親孝行」や「努力」に代表される、もはや笑いの種にされてしまっているような美談をあえて演じているのではないか。だからこそ、志の輔の落語は大衆を惹きつけ、時代を代表する落語家として君臨しているのではないか……と。

最後に、家元による立川志の輔評を引用して、この記事はおしまい。

志の輔はサラリーマンだった。サラリーマンであるということは中庸であるということですよね。おれから見て、こやつはまだ狂気が足りないというかもしれない、NHKの番組なんざやってるうちはダメだと言うかもしれませんが、中庸なやつがここまで来たってことは凄いと思います。でも、そのうち、おれに影響されて狂ってくるんじゃないか、狂わずにいられないんじゃないか。莫迦なら周りに影響されませんけどね、こやつは頭がいいんだから。

第十回「落語家という人生」より

『新潮落語倶楽部8 柳家さん喬』

新潮落語倶楽部 その8 柳家さん喬 「そば清」「締め込み」「ねずみ」新潮落語倶楽部 その8 柳家さん喬 「そば清」「締め込み」「ねずみ」
(2012/10/17)
柳家さん喬

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■『そば清』(01年3月23日/26分31秒)
そば屋の常連たちが、そばの食いっぷりがいい男に大食い勝負を持ちかけるのだが、どうにもこうにも歯が立たない。それもその筈、男はそばの大食いで有名な、通称“そば清”と呼ばれている人物だった……。他のネタには登場しない、そば清というキャラクターの描き方が絶妙。若旦那の様に軽やかで、それでいて、勝負師のしたたかさもある。後半に入る前に、オチをより分かりやすくするための例え話を持ってきているのは、ある意味では救いようのないオチを軽くするためだろうか。また、この例え話が、実にしっくりくる。こちらも絶妙。

■『締め込み』(03年5月9日/21分59秒)
とある家に忍びこんだ泥棒。タンスから風呂敷を引っ張り出して、その中に衣服をこれでもかと包み込んで、いざ逃げよう……というところで、その家の亭主が帰ってくる。慌てて床下に逃げ込む泥棒。一方の亭主はというと、目の前の風呂敷包みを見て考える。これは、もしかしたら、ウチの女房が……? 亭主に啖呵を切られた女房が語る二人の馴れ初めがとにかくヒドい。こういう亭主だからこそ、こういう勘違いをしてしまうんだろうなあ……と、思わず納得してしまう説得力。しっかしこの亭主、どうにか女房を持てたから良かったものの、時代が時代ならストーカーにでもなっていたんじゃないか? 先の“そば清”もそうだが、こういうちょっと軟派な男を描かせるとさん喬師匠は本当に上手い。結果的に泥棒が引っ張り出されるも……な展開が、なんとも落語的にアッケラカンとしていていいよねえ。

■『ねずみ』(08年1月7日/7分32秒)
ある旅人が子どもの客引きに連れて来られたのは、ねずみ屋という大変に小さな宿屋。その子どもが言うには、元々は向かいにある虎屋が自分たちのお店だったのだが、そこを悪い番頭に乗っ取られてしまったのだという。そこで旅人は、ねずみ屋のためにある行動に出る。人情噺の大ネタとして知られる一席を、さん喬師匠が8分足らずに編集。削れるところは削りまくっているが、地の語りに頼ろうとしないところに落語家としての意地を感じさせられる。とはいえ、結局は登場人物たちによる説明メインになってしまっているので、さして変わらない気もするが。今ではもっとカット出来るらしいので、そちらも一度聴いてみたい。ちなみに、さん喬師匠のちゃんとした(?)『ねずみ』は、『「柳家一門 名演集」その2』で聴くことが出来る(07年8月15日収録)。このネタの背景にある、更に悲痛でえげつない事情を深く噛み締めていただきたい。しっかし、ここまで削られると、なんだか落語を聴いているというより、『日本昔ばなし』を観ている気分になるな。それはそれで味がある。
プロフィール

菅家しのぶ

Author:菅家しのぶ
お笑いDVDコレクター。2014年5月からコンテンツリーグ発行のフリーペーパー『SHOW COM(ショーコン)』で名盤DVDレビュー「神宮前四丁目視聴覚室」を連載中。

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