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『談志のことば』(立川志らく)

談志のことば談志のことば
(2012/03/24)
立川志らく

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立川流家元、立川談志が最後に高座へ上がったのは2011年3月6日、川崎市麻生市民館で行われた「談志一門会」であった。弟子の出演者は志らくと談笑の二人。そして、ゲストには、晩年の談志が可愛がっていたというパックンマックン。

談志はトリで一席だけ落語をやることになっていた。この頃、既に談志の体調は芳しくなく、関係者には短めでいいと心配されていたという。ところが、そこで談志がやったネタは、『長屋の花見』と『蜘蛛駕籠』の二席。淡々と丁寧に、その高座を務めた。つまり、談志が人生で最後に演じた落語は、『蜘蛛駕籠』ということになる。落語に詳しくない人間であれば、このことにさほど驚きはしないだろう。だが、談志の信者ともいえる人たちなら、その事実に少なからず驚く筈だ。何故なら、それまでの数年の間、談志は『蜘蛛駕籠』をまったく演じていなかったからだ。そのことについて、談志の狂気を最も引き継いでいるといわれている愛弟子、立川志らくは次の様に分析している。

私は師匠が珍しい噺を高座にかける理由を拙著『落語進化論』の中で「師匠は自分が覚えた落語に一席ずつお別れをしているのだ」と書いた。それはまちがっていなかったと思っている。だから師匠としたならば、この「蜘蛛駕籠」が最後になるとは思っていなかったであろう。むしろ始まり、つまり落語とお別れをする始まりだったのではないか。もっともっとたくさんの落語ときちんとお別れをするつもりだったと私は思っている。(本文72ページより)


自らの死を意識した談志が落語とのお別れを始めていたとするならば、さしずめ本書は、立川志らくが愛して止まない師匠である立川談志の言葉を抜粋、解説することによって談志とのお別れをしている本といえるのかもしれない。『談志のことば』は、著者である立川志らくが体感した師匠談志の言葉を抽出し、そこに解説とエッセイを加えた本である。純粋な解説になっている文章もあれば、ただただ自らの思い出話を語っているだけの文章もある。いずれにせよ、そこには志らくの偏愛ともいえる談志への愛情が詰まっている。これほどの愛をもって師匠を敬愛し、また、それに対して師匠も愛で応えてくれていたのだから、さぞ幸せな関係だったのだろう。二人がお互いに愛する映画の話をしているくだりなど、読んでいて実にたまらないものがあった。

それにしても、本書に書かれている談志の言葉は、どれもこれも魅力的だ。

 師匠は癌になったときこう言った。
「癌は未練の整理によい」
 友達とはいつお別れになるかわからない。癌であれば、己の余命が読めてくる。だから友達ともきちんとお別れができる。
 あの晩の師匠がそう思っていたかはわからないが、私にはそう見えた。
(本文90ページより)


「死ねないから生きているんだ。死ねるやつはみな自殺している。死ねないから人間は生き甲斐なんてものを探す。動物に生き甲斐なんかない。俺によっては落語が生き甲斐となるわけだ。まあ生き甲斐なんて少ないほうがよい。割り箸をみつめて一日過ごせたらこんな楽なことはないよ」(本文149ページより)


 以前、柔道の谷亮子が、オリンピック選考試合に負けながらも、実績で出場が決まったときも、本質だけを言って彼女を切り捨てた。「ルールだろうがなんだろうが、負けたのだから辞退すべきだ、とんでもない女だ!」
 ヤワラちゃんファンからすると、選んだのは選考委員であって彼女に罪はないとなる。ただ師匠が言いたかったのは、勝ったのにオリンピックに行けない選手の気持ちを考えてやれということなのだ。
(本文162ページより)


単なる毒舌とは違い、ただただ本質をズバッと突く談志の言葉は良かれ悪かれとにかく響く。ところで、先で志らくは本書で談志とのお別れをしているのだと考察したが、読み進めていくごとに、それが間違いであるということに気付いた。何故ならば今、談志は志らくの身体に入っているからである。

私は決めてしまった。師匠が私の身体に入って落語をやるのだと。決めてしまったのだから仕方がない。(本文193ページより)


師匠が天国へ行ってしまったと思ったら、まさかの憑依である。ことあるごとに幽体離脱をしているザ・たっちもビックリだ。他の落語家が口にしたならば単なるバカモノな発言だが、志らくがこれをいうと妙に信憑性を感じてしまうからオソロシイ。更に、これに関連して、より驚くべき疑惑が浮上する。どうやら、志らくの身体の中には、談志だけではなく志ん朝も入っているらしいのだ。

 そう宣言した後、志ん朝師匠の十八番の「抜け雀」を演じたらお客からこんな言葉をもらった。志ん朝と談志が一つの落語の中で遊んでいるようだと。そういえば、平成中村座での談志追悼公演で私の落語を聴いた中村勘三郎さんがこんなことを言っていた。「志らくさんの落語は声が志ん朝で中身が談志なんだよね」。それを横で聞いていた高田先生が「いいなあ、お前、談志と志ん朝が一緒だなんて!」。(本文194ページより)


落語家死すとも、落語は死せず。それはなんらかの形で、きちんと残り続ける。
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プロフィール

菅家しのぶ

Author:菅家しのぶ
お笑いDVDコレクター。2014年5月からコンテンツリーグ発行のフリーペーパー『SHOW COM(ショーコン)』で名盤DVDレビュー「神宮前四丁目視聴覚室」を連載中。

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