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評論を、大いに語れよ

先日、脱評論家宣言をした。

この一年で急速に増加しているお笑い評論系ブログを読んでみて、「もはや自分の様に底の浅い分析を行うブログは必要が無い」と感じたからだ。

その宣言を行った記事には、たくさんのブログ拍手が寄せられた。おそらく、これまで書いてきたブログ記事の中で、最も多くのブログ拍手を集めた記事だったのではないかと思われる。

この結果を受けて、ネット知人の窓井ニゲル氏は、こういう旨のコメントを残した。「この拍手の数は、ネットのお笑い評論に対して胡散臭いと思っている人が多いということではないですか?」

そのコメントが正確な分析なのかどうかは分からないが、それ以外のコメントを読ませていただいた限り、とりあえず「ネット上での評論」に対して、ある種の拒否反応を起こしている人間というのは、決して少なくないようだ。

ただ、その拒否反応の原因となっているのは、「ネット上での評論」ということではなく、「評論」自体に対するものなのではないか、と思わなくもない。お笑いを評論することに対して、ストレートに否定的な人も少なくないし。

ところで、評論ってなんだろう?

僕はこれまで、自分のブログ上でお笑いを評論してきた(つもりだ)。でも、それは「お笑いDVDを紹介する」という主張から発展し、「QuickJapan的な文章が書きたい」というサブカルへの憧れへと気持ちを変化させた結果としての評論で、そのスタンスは世間で言うところの評論とは、少しばかり違っているように感じていた。

評論という言葉に対するイメージは、とりあえず「偉そう」である。椅子に深く腰掛けて、パイプを片手に、なにやら専門的なことをくどくどと語っているような、そういう印象がある。完全に竹村健一のそれだが、似たようなイメージを抱いている人は、決して少なくないのではないだろうか。

でも、それは“評論家”のイメージでしかない。何かについて“評論する”ということを明確に説明できる人は、それほど多くないのではないかと思う。少なくとも、僕はよく分かっていない。

評論とは何だ?

その答えを探すためには、評論家の本を読むべきだろう。でも、彼らの書く文章というのは、実に正確であるのかもしれないが、読者の知能指数を意識した文章ではないため、実に読みづらく、どうも途中で投げ出してしまう。

そんな折、僕はある一冊の本を見つけた。
 
創作落語論 (河出文庫)創作落語論 (河出文庫)
(2009/06/04)
五代目 柳家つばめ

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柳家つばめ、という噺家がいた。

過去形で説明していることからも分かると思うが、彼はもうこの世にはいない。1974年、46歳の若さでこの世を去っている。もしも、今も生きていたとしたら、今年で80歳になっている筈だ。

そんな彼が亡くなる二年前の1972年に上梓した著書『創作落語論』が、今年になって初めて文庫化された。落語家といえば古典落語だった時代に「古典落語は邪道だ!」「大衆に理解されやすい創作落語こそが本道である!」と主張している、非常に熱意に満ちた本である。

文章も1972年に出版された本とは思えないほどに読みやすく、あまり古臭さを感じさせない。もっとも、そこに魅力を感じて、なんとなく手にしてしまったのだが。

その『創作落語論』の中で、柳家つばめが評論家について書いている。本来なら評論される側である筈の落語家が評論家について語るということは、なかなか容易なことではない。そんな評論家の人たちに、柳家つばめはツメを剥き出しにして襲いかかる。もちろん、当時はネットでの評論なんて存在しなかったから、評論を生業としたプロの評論家に対して向けられているのだが。

柳家つばめは、評論家について次のように語っている。

 とにかく、話をすすめるが、現場の人間は、評論家の悪口を、表では絶対にいわない。損だから。
 悪口をいって、評論で仕返しをされてもつまらないし、その可能性は充分にある。
 いや、おこってはいけない。そんなことで評論の筆を曲げたりはしない、というあなたの信念は充分わかる。
 (略)
 評論家は、筆を曲げはしない。曲げはしないが、自分の評論に、自信過剰になりやすい、ということを心配するのだ。
 謙虚さを失いやすい。
 もっとも、評論家というものは、いくぶん、自信過剰ぎみでないとできない仕事だが、だからこそ、とくに、謙虚さというものを大切にしてもらいたい。
 つねに、どこかに自戒がなければ困る。
 現場の人間は、いつもほんとうのことをいわない。つねに持ちあげる。
 評論家は、だから権力者である。
 それも、権力なき権力者
 たぶん、ご本人は権力者などと思っていないだろう。
 だからこわい。


ネットで評論を行っている人間の多くは、恐らく現場でヨイショされたことなどないだろう。が、なんとなく身に覚えのある話なのではないか、と思わなくもない。まあ、身に覚えがない人の方が多いだろうが。

さて、本題である。評論とは、果たして何なのか。

 危険を冒す。
 誰も認めてないものを認めてやる。
 間違って理解されているものに、まともな光を当ててやる。
 その世界が、もし曲った方向に進んだら、声を大にして警告を与える。
 そのためには、つねにその世界全体に目をやり、感情をおさえ、さめた目で、物を見通さねばならない。
 さきほど、私が、ふつうのセンスに、プラス・アルファといったのは、このことである。
 その世界に、ひたり切ってはならない。
 当然、その世界のアカが目について、動きを見ることができなくなる。
 噺家とつき合って……だからいけない……と、さきほど私がいったのは、これを恐れたのだ。
 今のまんまだったら、評論家ではなくて、解説者にすぎない。
 解説者なら、ただ解説すりゃあいいんだから、その世界の発展に責任を持つ必要はない。

 評論は、その世界を盛んにするためにある。
 どんなに正確なことを指摘しても、そのために、出演者がやる気をなくすようだったら、下の下である。
 そして、評論家の値打ちは、他の一般の人びとが気のつかない長所、よい材料を発見してそれを育てることである、ということを頭に入れてほしい。
 たいへんな仕事だよ、ほんとうは。


先にも書いたが、柳家つばめが批判の対象としているのは、あくまでもプロの評論家である。とはいえ、スタンスという意味では、ネット上で繰り広げられている評論(もとい芸論)に対しても言える話であるようにも思う。第三者的な冷静な視点と、その芸人を気持ちを奮い立たせるような言葉。それこそが、評論家の最重要事項であるという師の意見は、きっと間違っていないだろう。

ところで、柳家つばめは本文にて「評論家にとって最低限必要なこと」として、以下のような言葉を残している。

 勉強第一だ。
 一般の噺家の十倍は勉強が必要だ。
 あなたは、全落語の概略をすべて、落語に出てくる言葉の意味をすべてのべられるか。
 あなたは、全噺家の全レパートリーとまではいわない、得意の出し物を、全部聞いたことがあるか。
 この噺のこれは、どういう意味でしょう、と噺家に聞かれて、すべて答えられるか。
 この程度が、評論家としての最低条件である。
 なぜ最低か。
 つまり、努力すれば、この程度のことは、誰にでもできるからだ。


評論家になるのは、思ったよりも大変そうである。

 たいへんな仕事だよ、ほんとうは。
 僕は評論家にならなくて、よかった。


脱評論家宣言をして、よかった(無責任)。
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文章長くてイカンなぁ

 「危険を冒す。~」からの枠で囲われている文章は非常に共感します。

 要するに「評論に意味がある」のではなくて、「伝える理由のある人が評論するから意味が生まれる」ということなのではないでしょうか。

 その点菅家さんには「(TVだけでなく)DVDで見るお笑いの楽しさ」という理由があるからこそ、みなさんにも好感を持たれるのでは。
 理由を持っていない人がいくらもっともらしく文章を書いても、それは「解説」にしかならないのでしょう。

 いわゆるネットのお笑い評論は、評論ではなく、僕には「解説」か「芸能ニュース」にしか見えませんね。「(彼らの言う)お笑い」というちっちゃい枠の中で、中身のない付加価値をいかに付けるか、という話か、もしくは笑いの部分をもっともらしい言葉で言い換えてるだけ。
 それらは「あーボクもそう思ったぁ」という”安易な安心”を得る機能を果たしているに過ぎません。そのヌルイ馴れ合いが楽しい人は、まあご自由にってかんじですけどね。
 ボクは読んでいても、なんら新しい発見もありませんし、あまりの退屈さと、馴れ合いのタコツボ感の不快さしか感じないのでゴメンこうむってます。


 以前僕は「菅家さんはそこまで評論を意識し過ぎなくても~」と書きました。これは「評論」というのはその人の考える「(お笑いの)世界観」の中で位置づけしてゆく、という意味が強いと思います。つまり構築された世界を発表するかんじであり、リアルタイムで変化してゆく「ライヴ感覚」とは逆のものではないでしょうか。

 手前ミソですがウチのブログでは、例えば桂枝雀のCDを1,2枚聞き始めたときは「すげーすげー」と言っていますが、さらに枚数を重ねるにつれて決してすべてがスゴイわけではない、ネガティブな感想も出てきます。

 「評論」と言う場合はこのように、評価がこのようにチョロチョロ変化していってしまうことはあまりヨロシクナイでしょう。

 しかし(ウチで取り上げているようなものが)単なる博物館に置いてあるものとか、日本の現在のお笑いと別世界なのではなく、現在進行形で十分価値がある、面白い、ということを表現するためにあえて「ライヴ要素」を入れており、聞き進むにつれ評価が揺れ動く部分もアリだとして敢えてさらしているわけです。

 また、芸が、ちゃんとカタチができるようになったら、ライヴ感(ドキュメント)と繋げることで強さが出るのと同様、このような評論もライヴ感覚と繋げることでスリリングな面白さも生まれてくると思います(僕のブログの文章がカタチができているかと言われると、全然自信がないのですが)。

 つまりカッチカチキメキメの評論100%ではなく、ちょっと破れを入れてみる、という意味でもある。月一などの紙媒体でこういう揺らぎ要素を入れるのは難しいですが、リアルタイムに更新できるネットには向いている。

 菅家さんのブログも、いつも発売直後のDVDを取り上げているのでこういう現在進行形要素も結構入っているのではないでしょうか。


 あと「評論家は偉そう」というのはそのとおりです。ただそれはたくさん見ている評論家が偉いのではなく、「文化(先人達の蓄積)への敬意」でしょう。評論家が「世界はこう構築されている」と自分の考えを示すことは、言い換えれば「文化を代弁する」ということでもあります(過去を知るから未来も語れる(談志の言葉を借りると「未来とは修正可能な過去である」))。

 我々は無限の自由の中に勝手に存在…しているはずはなく、先人達の蓄積や知恵とともに生きています。それらにある程度の敬意を払うのは当たり前ですよね。

 だから評論家は「虎の威を借る狐」であることも確かです。また「文化」というのは形がないものですから、どう捉えるか、というのが評論家によって違ってくるところです。


 「QuickJapan的な文章が書きたい」と、まあ半分冗談でしょうが、ならば逆説的ですがQuick Japanだけは読み込んだりしないほうが良いでしょうね(僕はその雑誌は名前しか知らないけど)。そういうのは影響されやすくて、すぐ表面ばかり似てしまいますからね。

 手塚治虫も確かこんなようなことを言ってませんでしたっけ。「漫画家が漫画を読んで漫画を描くようになったら、漫画の衰退だ」と。なるべく他の知識をたくさん吸収するべきなのでしょう。

No title

やはり食いついてきましたね!
ナイスフィッシング! …いや、釣り目的の記事ではないですが。
やっぱり僕もちょっと共感を覚えたもので。

> ネットのお笑い評論
以前から気になっていたのですが、
行かない旅さんが言うところの「ネットのお笑い評論」って、
何処のことを言っているのでしょうか。
…敵を作るような質問してますね。うーん。

> 単なる博物館に置いてあるもの
僕がブログでイメージしているものというのは、
実はそういう「博物館」的なものだったりします。
目指している方向性と、逆の方向に行ってるってことですかね。
それはそれで、良さそうな気がしますが。流れるように。
ホントはライブラリー、作りたいんですけどにゃあ。

>「文化を代弁する」
この表現にグッときました。うーん、渋い。
いや、分かります。分かってますよ。ホント。

> QuicJapan
これは、割とマジです。マジでしたというべきでしょうか。
なんていうんですかねえ、サブカルにかぶれてるんですよ。
二十代半ばでかぶれるというのも、なんだかな話ですが。
それでノーリアクションなら良いんですけど、
そこそこ大きな反応が返ってきたりすることもあって。
そっち方面で行くべきか否か、まだ悩んでたりします。
…いや、たぶん行きませんけど。

でも、未だにブログの記事に悩んでいるときは、
村上春樹の『THE SCRAP』とか、
西島大介の『土曜日の実験室』とか、開いちゃったり。
文章のバックボーンの弱さに、ちょっと愕然としますな。

>「漫画家が漫画を読んで漫画を描くようになったら、漫画の衰退だ」
おかしいなあ。昔、その言葉を聞いた覚えがあるのですが。
忘れてしまってるというか、自分に重ねてなかったですね。
感銘。違う。肝銘。
プロフィール

菅家しのぶ

Author:菅家しのぶ
お笑いDVDコレクター。2014年5月からコンテンツリーグ発行のフリーペーパー『SHOW COM(ショーコン)』で名盤DVDレビュー「神宮前四丁目視聴覚室」を連載中。

連絡用メールアドレス
loxonin1000mg@yahoo.co.jp

Twitterアカウント
https://twitter.com/Sugaya03

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